生まれては消えるパトランチーム
2017年が始まり、愛知県西尾チームがキックオフ。パトランのチーム数は7つまで増えました。パトランを始めた当初は、正直こんなに全国的に広がっていくとは思いもしませんでした。
チームが増えた経緯を思い返すと、話は2013年にタイムスリップ。
パトランを始めてまだ間も無い頃でした。
宗像で粛々とパトランしている時、Facebookでパトランを見た大学の後輩から「自分もやってみたい」と連絡をもらいました。
その頃はルールも何もなかったので、「それならやってみたらいい」と東京で展開することに。確か場所は江戸川周辺だったと思います。
その活動を見た、後輩の知人が「自分もやりたい」ということで次は神奈川で展開することに。
トントン拍子あれよあれよと言う間に、パトランの地域は3つに増えました。
「おおっ!チームを作って展開するのって案外楽勝♪こりゃ全国に広まるのも時間の問題」
とそんな風に天狗鼻で楽観視してました。
がそんなうまくいくはずもなく、事態は急展開。
東京のパトランは2~3ヶ月続いたものの、いつしかパッタリと活動が行われなくなりました。
簡単に立ち上げた分、終わりもあっさり。
神奈川での活動は1年くらいゆるく実施してもらっていたんですが、これも徐々に立ち消えていきました。
運営をほとんど私一人で行っていたこともあり、運営のサポート体制やルールなどを作ることもできずにいたので今考えると、まあ当然といえば当然のことだと思います。
「宮崎でもパトランをやりたい」
と、とあるNPOさんにも声をかけてもらい、Tシャツまで作って送りました。しかし残念ながら実現には至りませんでした。これらは2013~2014年までのこと。
パトランはすんなり立ち上がって全国展開している風に見えたりしますが、とんでもない。
失敗だらけです。
1つの転機となったのは、2014年に初めて開催したランニングセミナー。
偶然SNSで拝見して参加したというバイタリティ溢れる女性が、今の宗像チームの代表の時安さん。全3回のセミナー後、パトランのメンバーに加わってもらうことに。
当時は、いわゆるランナーとのつながりはほぼないに等しかったんですが、時安さんがパトランに加わることで、時安さんの持つ豊潤なランナーネットワークにアクセスできるようになりました。
一度つながると芋ずる式に、ランナーとのつながりが増えていきました。
メディアの影響も強かったです。
住友生命「YOUNG JAPAN ACTION」で大賞を受賞し、浅田真央ちゃんがパトランに参加!
その様子は全国放送のCMで数ヶ月流れることに。NEWSゼロの後には鉄板で放映されるほど。この影響は大きかった。
そんな複合的な要因が重なったこともあり、2015年の夏前からパトランチーム発足のうねりがどっと押し寄せてきました。
チーム展開の構想は、東京や神奈川での一件以降あまり考えてもいなかったんですが、これは1つのチャンスだと思い、大急ぎでチームの展開のルールや規約などを作りました。
しかし、これが脆弱で後々とても苦労することになるのはこの時はまだ知る由もせず。
この頃に立ち上がったチームは4つ。北九州や古賀福津チームに加え、いまは無き、箱崎と大川という2つのチームが存在しました。
チームが消滅した理由
箱崎は整骨院を営む私の友人が、宗像に次ぐ2つ目のチームとして立ち上げました。
活動は月に1回をベースに行っていたものの、結局半年と持たずにチームは解散。
理由は忙しくなってパトランに時間を割けなくなったということでした。
大川は、大川の市議会議員が大川でパトランを展開したいということで市長を巻き込んで華々しくスタートを切りました。
その様子は新聞にも掲載されたほど。市の期待を背負いながらスタートした大川チームでしたが、実施したのはたったの1回のみ。
蓋を開けてみると、その議員への賛同者は誰もおらず、パトランを行える体制は無いに等しいものでした。
完全に運営者を見誤りました。
今振り返ると、失敗した原因は主に2つあると思っています。
1つ目は、パトランの趣旨を正確に理解してもらっていなかったこと。
目的が、自分の利益のために行うものとなってしまいました。
方針のズレ、ボタンの掛け違いを起こさないために、顔を突き合わせたコミュニケーションをとること。そして、運営者を判断することはとても大切なことだと気付きました。
2つ目は、組織ではなく個人だったこと。
代表を支える仲間が周囲におらずワンマン経営のため、代表が活動ができなくなると自然消滅してしまうケース。
これはチームとは言えません。
短期で終わらない息の長いチーム運営には、仲間がいることが重要な要素であると思います。
これらの失態を招いたのは、いわばすべて自分の力不足。
東京、神奈川を含めると合計4つのチームを継続させられなかった無力な自分がポツンと立ち尽くしてました。
「ひとりでは何もできない」
そのことを身を持って思い知らされ、土俵際に追い詰められていましたが、幸いにも、この時期からパトランの運営に関わってくれる仲間が周りにできました。
貴重な時間を削って、意欲を持って関わってくれるメンバーがいることに、初めて心強さを感じました。
振り返ると、結局は僕自身が消滅したチームと同じで、ワンマンで活動を続けてきて僕が辞めればパトランもなくなってしまう脆弱なものだったんだなと。
しかし、こうして一緒に活動できる仲間ができて、ようやくパトランは不滅だと思えるようになりました。
そこから今に至るまでも、たくさんの壁にぶち当たっていますが、個人ではなくパトランチームとして考えを出し合い、実行することで課題を乗り越えていっています。
失敗はこれまでたくさんしてきましたし、これからもたくさんすると思います。
なるべく直っすぐな道を進みたいのですが、いつの間にか、道なき道を走っています。
しかし、その回り道が今につながっていると自信を持って言えますし、それが一番の近道な気がしています。